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【幻のル・マン参戦マシン】伝説のロードゴーイングカー「CLK-LM」の圧倒的歴史

記事の主題を表すイメージ メルセデス・ベンツ

メルセデス・ベンツCLK-LMは、1998年のル・マン24時間レース制覇とFIA GT選手権連覇のためにAMGが極秘裏に開発した、わずか2台しか公道仕様が存在しない伝説のGT1レーシングカーです。

ル・マン本戦ではわずか2時間で全滅するという悲劇に見舞われながらも、同年のFIA GT選手権では出場した全レースで勝利を収め、あまりの圧倒的な強さゆえにライバルを駆逐し、カテゴリーそのものを終焉へと導いた特異な運命を背負っています。

車は鉄ではなく、記憶でできている。──僕はその記憶を言葉で再生する。

自動車ライターの僕、高坂遼が、銀色のボディに刻み込まれた技術者たちの狂気と栄光の軌跡を、静かに紐解いていきます。

メルセデス・ベンツCLK-LMとは?ル・マン制覇を狙った極限のエボリューション

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※画像はAIによるイメージ

メルセデス・ベンツCLK-LMとは、1998年のFIAグループGT1規定に合わせてメルセデス・ベンツとAMGが共同開発した、公道走行可能なホモロゲーション取得用ロードカーをルーツに持つ究極のグランドツーリングスポーツカーです。

前年に圧倒的な速さでタイトルを奪取した「CLK-GTR」をベースにしながらも、その中身はほぼ別物と呼べるほどの徹底的な再設計が施されていました。

目標はただひとつ、サルテ・サーキットの頂点に君臨することでした。

全長4,900mm、全幅1,999mm、全高はわずか1,119mmという地を這うようなプロポーション。

乾燥重量はわずか940kgにまで削ぎ落とされ、ブリヂストンタイヤを履かせた車体は、市販車のCLKとはかけ離れた異次元のオーラを放っていました。

CLK-GTRとの決定的な違いは、フロントフェイスの低さと薄さにあります。

CLK-GTRがフロントに配置していた冷却用ラジエターをサイドへと移設したことで、ノーズは限界まで低くスラントさせられ、空気の壁を切り裂くようなウェッジシェイプが完成しました。

そして何より、心臓部にはV12ではなく、あえてグループCカー直系の「V8自然吸気エンジン」が選ばれたのです。

GT選手権用としては、かつて世界耐久選手権(WEC)で暴れ回ったザウバー・メルセデスC9やC11に搭載されていた名機「M119」からターボを取り払った、5.0リットルV型8気筒自然吸気ユニット(GT108B型)がミッドシップに鎮座しました。

ル・マン24時間レース仕様においては、さらなるトルクと耐久性を求めて排気量を6.0リットルへと拡大。

6速シーケンシャルトランスミッションを介して後輪を駆動するそのシステムは、極限の信頼性を求めて選び抜かれたパッケージでした。

なぜAMGは、猛威を振るっていた大排気量V12を捨ててまでV8を選んだのか。

そこには、ル・マンの長いストレート「ユノディエール」を24時間走り続けるための燃費性能、そして重量配分の適正化という冷徹な計算が働いていたのです。


なぜメルセデスはCLK-LMを生み出したのか?激動のGT1黄金期とAMGの執念

CLK-LM誕生の背景には、1990年代後半に突如として訪れた「GT1黄金期」の狂乱と、メルセデス・ベンツが抱いていたレースへの飢えがありました。

かつて1955年のル・マンでの悲劇によってワークス活動を封印していたメルセデスは、1980年代半ばからザウバーやAMGと共に段階的な復帰を果たしていました。

1989年にはザウバー・メルセデスC9がル・マン24時間レースを制覇し、「シルバー・アローの復活」を世界に宣言。

DTM(ドイツツーリングカー選手権)でもAMGの手によって栄華を極めましたが、1996年に国際ツーリングカー選手権(ITC)がコスト高騰により崩壊すると、AMGは突如として戦場を失ってしまいます。

そのときメルセデスが目を向けたのが、マクラーレンF1 GTRやポルシェ911 GT1が覇権を争っていた「BPRグローバルGTシリーズ」、そしてそれを引き継ぐ形で1997年に開幕した「FIA GT選手権」でした。

当時のグループGT1規定には、「公道走行可能な市販ロードカーを最低1台製作すること」というホモロゲーション条項が存在していました。

建前としては「市販スポーツカーのレース仕様」を競うクラスでしたが、各メーカーの解釈は過熱の一途をたどります。

メーカー各社は「まず純粋なレーシングカーを設計し、それにナンバープレートを取り付けて『市販車です』と言い張る」という逆転の発想でマシンを仕立て上げるようになりました。

メルセデスとAMGの執念は凄まじいものでした。

1997年、AMGはライバルであるマクラーレンF1のシャシーを購入して徹底的に研究し、なんとわずか「128日間」という信じられない短期間でCLK-GTRを完成させます。

デビューしたCLK-GTRは見事に1997年のチームタイトルと、ベルント・シュナイダーのドライバーズタイトルを獲得しました。

しかし、メルセデスにとっての真の悲願は、FIA GT選手権の連覇だけではありませんでした。

1989年以来遠ざかっていた、あのサルテ・サーキットの栄冠──ル・マン24時間レースの総合優勝こそが、彼らの渇望する頂でした。

V12の巨体をル・マンの超高速レイアウトに最適化させるため、シャシーを新開発のカーボンモノコックへと刷新し、リヤオーバーハングを延長したロングテールボディを採用。

極限の空力性能と軽量化を追求して生まれたのが、この「CLK-LM」だったのです。


わずか2台のストリートバージョン──決して市販されなかった「幻のロードカー」

FIAのGT1ホモロゲーションを取得するため、メルセデスとAMGは規定に則り、実際に公道を走ることができる「CLK-LM ロードバージョン」を2台製作しました。

しかし、前年のCLK-GTRが一般の富裕層向けに20台以上のロードカー(クーペおよびロードスター)として実際にデリバリーされたのに対し、CLK-LMのロードバージョンが一般に市販されることは一度もありませんでした。

この車はまさに、レースを走る資格を得るためだけに生み出された「制度上の亡霊」でした。

外観はCLKを名乗り、市販モデルの象徴である4灯ヘッドライト、テールランプ、フロントグリルをトレースしていましたが、それは表層的な仮面にすぎません。

中身はカーボンモノコックシャシーに剥き出しのロールケージ、レーシングサスペンションが組み込まれた純度100パーセントのレーシングマシンでした。

わずかにレザーをあしらったシートや最低限のダッシュボード、公道用の保安基準を満たす灯火類が備えられていたものの、乗り手を選ぶという次元を超えた、走る狂気そのものでした。

市販されなかった2台のロードバージョンは、長きにわたりメルセデスの厳重な管理下に置かれ、公の場に姿を現すことは滅多にありません。

市販化を前提とせず、勝利という目的のためだけに作られた2台のロードカー。

それは量産車のラインナップに名を連ねることはなくとも、後世のスーパーカーファンやコレクターの間で「世界で最も手に入らないメルセデス」として語り継がれることになったのです。


予選最速から2時間での全滅──1998年ル・マン24時間の悲劇と栄光

CLK-LMの参戦が公式にアナウンスされたのは、1998年のル・マン予備予選が終わったあとの5月という異例の遅さでした。

ライバルたちを煙に巻くようにベールを脱いだマシンにとって、ル・マン24時間レース本番こそが記念すべきデビュー戦となったのです。

予選での速さはまさに圧倒的でした。

並み居る強豪、ポルシェ911 GT1-98、日産R390 GT1、そして当時怪物的なスピードを誇っていたトヨタGT-One(TS020)を抑え込み、ベルント・シュナイダーが駆る35号車が見事にポールポジションを獲得。

さらに僚友の36号車も予選3位に飛び込み、フロントローとセカンドローを銀色の矢が占拠しました。

「今年のル・マンはメルセデスの独壇場になるのではないか」

誰もがそう確信した決勝のスタートでした。

しかし、過酷なサルテ・サーキットは、急造のシルバー・アローにあまりにも冷酷な結末を用意していました。

決勝レース開始からわずか75分、トップを快走していたポールシッターの35号車がパワーステアリングポンプの破損に見舞われ、油圧系統のトラブルから油温が急上昇してコース上にストップ。

さらにその直後、もう1台の36号車もまったく同じパワーステアリングトラブルを起こし、エンジンブローを喫して白煙を上げました。

時計の針がスタートから2時間を刻む前に、メルセデスAMGの2台のCLK-LMはあっけなく戦線を離脱してしまったのです。

予選での圧倒的な速さと、決勝でのあまりにも呆気ない全滅。

この強烈なコントラストは、レーシングカー開発における「速さと耐久性」の相克をこれ以上ないほど残酷な形で世界に見せつけました。

しかし、CLK-LMの真の恐ろしさは、この悲劇の直後から幕を開けることになります。


1998年FIA GT選手権での完全無欠──出場全戦全勝という破壊的結末

記事の内容に合う図2
※画像はAIによるイメージ

ル・マンでの屈辱的な敗北を喫したAMGは、即座にパワーステアリング周辺の構造的欠陥を修正。

そして戦いの舞台を、主戦場であるFIA GT選手権へと移しました。

第3戦ホッケンハイムで、それまで走っていたCLK-GTRに代わってデビューを飾ったCLK-LMは、初戦から異次元のパフォーマンスを見せつけます。

クラウス・ルートビッヒとリカルド・ゾンタが駆るCLK-LMが優勝を飾ると、そこからはもはや「レース」ではなく「独演会」となりました。

項目 メルセデス・ベンツ CLK-LM(1998年仕様)
全長 × 全幅 × 全高 4,900 mm × 1,999 mm × 1,119 mm
ホイールベース 2,670 mm
車両重量 940 kg
エンジン型式 M119(GT108B型)V型8気筒 DOHC 自然吸気
総排気量 4,986 cc(FIA GT) / 約 6.0 L(ル・マン仕様)
トランスミッション 6速 シーケンシャル
装着タイヤ ブリヂストン
主な戦績 1998年ル・マン24時間 ポールポジション 1998年FIA GT選手権 第3戦〜第10戦 全勝(8連勝) チーム/ドライバーズ(ルートビッヒ/ゾンタ)ダブルタイトル獲得

第3戦ホッケンハイムから最終戦(第10戦)ラグナ・セカまで、CLK-LMが出場した全8戦において、優勝カップはすべてメルセデスAMGの手にもたらされました。

チームはCLK-GTRで制した開幕2戦と合わせて、シーズン10戦全勝という前代未聞の完全制覇を達成。

チームタイトルとドライバーズタイトルのダブルタイトルを2年連続で獲得したのです。

CLK-LMはあまりにも速く、あまりにも壊れませんでした。

プライベーターへの販売は一切行われず、ワークスチームだけで独占されたそのスピードは、ポルシェをはじめとするライバルメーカーの戦意を完全に喪失させました。

勝利を渇望して作られたマシンが、あまりの完全無欠さによって対戦相手をすべて追い払い、翌1999年のFIA GT選手権GT1クラスのエントリーをゼロにしてしまったのです。

自らの圧倒的な強さによって、自らが戦うカテゴリーそのものを消滅させてしまう。

モータースポーツの歴史上、これほど逆説的で罪深い栄光を手にした車が他にあったでしょうか。


知られざる日本との接点──幻に終わった全日本GT選手権(JGTC)参戦計画

このCLK-LMには、日本のモータースポーツファンにとって見過ごすことのできない、知られざるエピソードが存在します。

1999年の全日本GT選手権(JGTC、現在のSUPER GT)GT500クラスに、プライベーターチームである「MTCI」がCLK-LMを購入して参戦を表明していたという事実です。

当時、スープラ、スカイラインGT-R、NSXが熾烈なワークスバトルを繰り広げていた日本のGT500に、あのル・マン最速の怪物が殴り込みをかける。

もし実現していれば、日本のレースシーンの歴史は大きく塗り替えられていたはずでした。

しかし、マシン売買の最終段階において、日本のインポーターとAMG本国の間で深刻なトラブルが発生してしまいます。

FIA GT選手権が消滅し、ワークス専用の秘密兵器として門外不出の扱いを受けていたCLK-LMに対し、AMG側は車両の譲渡に関して極めて強い難色を示し、頑なに態度を硬化させました。

結果として交渉は決裂し、MTCIチームはCLK-LMでのエントリーを無念にも断念せざるを得なくなりました。

日本のサーキットでV8自然吸気エンジンの咆哮を響かせるCLK-LMの姿は、ファンの夢想の彼方へと消え去ったのです。


その後の系譜──悲劇の怪鳥「CLR」への進化とル・マン撤退

FIA GT選手権でのGT1クラス消滅を受け、メルセデスは翌1999年、ロードカーの製作が不要となったフリーフォーミュラのクローズドプロトタイプ規定「LMGTP」へと舵を切ります。

CLK-LMの空力設計とカーボンモノコックのノウハウを極限まで先鋭化させ、車高をさらに下げ、オーバーハングを極限まで伸ばしたマシン──それが「メルセデス・ベンツ CLR」でした。

10年ぶりのル・マン制覇を目指して送り込まれた3台のCLRを待っていたのは、モータースポーツ史に刻まれる最悪の悪夢でした。

極端な低ドラッグを追求したフロントのエアロダイナミクス設計が仇となり、ピッチングの拍子に車体底面に空気が入り込んでフロントがリフトする現象が発生。

予選2日目にマーク・ウェバーが操縦する車体が宙を舞い、決勝当日のウォームアップ走行でも再びウェバーの車体が舞い上がってバックフリップを演じました。

チームはノーズにカナードを追加するなどの緊急対策を施して決勝レースに出走させましたが、悪夢は終わりませんでした。

決勝レースの76周目、インディアナポリスコーナー手前の高速区間で、ピーター・ダンブレックがドライブする5号車が前走車のスリップストリームから抜け出た瞬間、突如として空中に浮き上がり、3回転半しながらコース脇の森の中へと落下する大クラッシュを起こしたのです。

幸いにもダンブレックは一命を取り留めましたが、メルセデスは即座に残るマシンをピットに呼び戻し、レースからの即時撤退を決定しました。

この事故を機に、メルセデス・ベンツは長期にわたりル・マン24時間レースの舞台から完全に姿を消すことになります。

圧倒的な速さでライバルを駆逐したCLK-LMの設計思想は、さらなる速さを求めて先鋭化した結果、宙を舞うCLRという悲劇的な終焉へと連なっていたのです。


自動車ライター高坂遼の視点──なぜ「CLK-LM」の記憶は僕らの心を揺さぶり続けるのか

機械工学の図面を眺めて育ち、人と車が織りなす情動の交差点を追い続けてきた僕にとって、CLK-LMという存在は、ある種の「痛切な美」を宿した記念碑のように思えてなりません。

この車が放つ特異な引力は、単に「10戦全勝した」という数字の凄みから来ているのではないはずです。

それは、1990年代後半という、メーカーの野心とレギュレーションの隙間が火花を散らしていた、狂おしいほど熱い時代の「生々しい痕跡」だからです。

市販車であるCLKの顔立ちを精巧に模しながら、その内側にはまったく別種の猛獣を飼いならしていた二面性。

ル・マンを制覇するために大排気量V12をあっさりと捨て去り、グループCの遺産であるV8エンジンを研ぎ澄まして積み直した冷徹なリアリズム。

そして、速さを突き詰めすぎた結果として、自らの遊び場であったはずの選手権そのものを消滅させてしまったという、ギリシャ悲劇にも似た結末。

効率や環境性能、厳格に標準化された安全基準が支配する現代のモータースポーツにおいて、これほどまでに獰猛で、傲慢で、かつ儚いレーシングマシンが生まれる余地は、もうどこにも残されていません。

ハンドルを握るレーサーの脈拍と、限界まで薄く成形されたカーボンパネルの震えが、ダイレクトに共鳴していた時代。

予選でライバルを戦慄させながら決勝2時間であっけなく散ったル・マンの挫折も含めて、CLK-LMは「完璧すぎたゆえに壊れやすく、強大すぎたゆえに孤独だった」のです。

鉄の冷たさではなく、そこに注ぎ込まれたエンジニアたちの過剰なまでの情熱と執念。

その記憶の熱量こそが、四半世紀以上の時を経た今もなお、僕たちの心を捉えて離さない「走る哲学」の正体なのだと僕は思います。


【幻のル・マン参戦マシン】伝説のロードゴーイングカー「CLK-LM」のまとめ

記事の内容に合う図3
※画像はAIによるイメージ

メルセデス・ベンツCLK-LMは、1998年にメルセデスとAMGが威信をかけて開発した、グループGT1規定の歴史に深く刻まれる名車です。

  • ル・マンを狙った徹底改良: 前年王者CLK-GTRからV8エンジン(M119型自然吸気)へと換装し、ラジエターのサイド配置によって極限まで低いフロントノーズを実現
  • 市販されなかった2台の公道仕様: GT1ホモロゲーション取得のために作られたストリートバージョンはわずか2台で、一般販売はされなかった
  • 光と影のコントラスト: デビュー戦の1998年ル・マン24時間ではポールポジションを獲得しながら2時間で全滅、しかしその後のFIA GT選手権では全戦全勝でダブルタイトルを獲得
  • カテゴリー自体の終焉へ: あまりの圧倒的な速さにライバルが撤退し、GT1クラスそのものを消滅へと追い込んだ
  • 悲劇のCLRへ: その過激な空力設計の思想は翌年のLMGTPマシン「CLR」へと受け継がれ、ル・マンでの大クラッシュ劇とワークス休止の引き金となった

自動車の歴史には、勝利の数以上に、そのマシンが纏っていた「影」の深さによって永遠の命を得る車があります。

メルセデス・ベンツCLK-LMは、まさにその頂点に位置する、美しくも孤独な銀色の矢だったのです。


よくある質問

メルセデス・ベンツCLK-LMとCLK-GTRの最大の違いは何ですか?

最も大きな違いは搭載エンジンとフロント周辺の空力設計です。CLK-GTRが6.0リットルV型12気筒エンジンを搭載しフロントにラジエターを配置していたのに対し、CLK-LMは耐久性と軽量化を重視してグループC由来の5.0リットル(ル・マン仕様は6.0リットル)V型8気筒自然吸気エンジン(M119型)に変更されました。ラジエターをボディサイドへ移設したことで、CLK-LMのノーズはGTRよりも明らかに低く薄く設計されています。

CLK-LMの公道仕様(ロードバージョン)は購入できたのですか?

一般ユーザーは購入できませんでした。FIAのGT1規定を満たすために2台のロードバージョンが実際に製作されましたが、前年のCLK-GTRロードカー(20台以上販売)とは異なり、CLK-LMは一般への市販が行われませんでした。現在でもその希少性から、歴史的資料として極めて厳重に保管されています。

1998年のル・マンで圧倒的な速さを見せながらリタイアした原因は何ですか?

パワーステアリングポンプの破損が原因です。予選でポールポジションを獲得するなど圧倒的なスピードを披露したものの、決勝開始からわずか1時間強でパワーステアリングポンプが故障。それに伴い油圧・冷却系のトラブルが連鎖して油温が急上昇し、出走した2台ともがスタートから2時間以内にエンジントラブルで戦列を去ることになりました。

高坂 遼(こうさか・りょう)

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